>>花咲く木

人体

人体とは先ほどから云うように自分自身をすべて物語ってくれている。
人体とは自分のもっとも拠り所とする頼りになるものである。
もし、人体についてあきらめたり無視し続けていたなら、我々のどんな理想や夢や希望もゴミと同様の価値しかないであろう。
人体が今どんなに悲鳴をあげていようがそれと向き合いながら生きていかなければいけない。

シンプルに生きることは機能のいい人体を備えていると云うことである。 肝臓について人体は外界のいろんな事物を取り入れながら生きている。
人体の窓口は大変広いもので有ると云えそうである。
いろんな混合物を取り入れながら、ちゃんと生きていけるのはそのような仕組みになっているからである。

例えば、肝臓は血液中の毒素や老廃物を除去し、きれいなものにし体内に循環させていく機能がある。
要するに、ちゃんと生きていくために必要なものであるかどうかを選別し処理していく機能であると云うことである。

感情・意識が内蔵とちゃんと結びついて機能しているならば、このように不必要なものは体内に取り込むことなく、すぐに選別され浄化される。
それでも、生命活動に不必要な感情等の意識が体内に取り込まれ続けるならば人体はそのように順応し浄化作用は著しく低下させられるであろう。
もし、感情等の意識が内蔵の働きと全く分離してしまうならば、その人はどん なめちゃくちゃな意識を人体に取り込んだとしても涼しく健康そうに生きているであろう。
しかし、それは人間ではない。

内蔵と意識の一致。
さて、問題はこれからである。

先ほどから云うように、意識と内蔵が密接につながっていることを前提にするならば、機能する身体とは、機能する意識と云うことであろう。
説明がややこしくなったが、現状の意識の蓄積が身体をどのような状態にしているかを身体自身に聞くことである。
どのように聞くかと云えば様々であるが、基本的には体のこわばりをとりリラックスした状態で動く。
例えば、ソワイショウの要領で出来るだけ内部からの動きを重視する。
内部からの動きと云っても、初めから解らないで有ろうが、とにかくすこし体を動かしてみて、そしてその動きが自然になくなるまで動きを観察する。
この時に、体より、感情等の意識に身体が占領されることもある。
さけることなく、それと素直に向かい合う。

これが、自分の今の状態かもしれない。
身体は泣くこともあるかもしれないし、喜ぶかもしれない。
これらのことは自分勝手に理解したり、真似事では危険を招くことがあるかもしれない。
かといって、自分でもやらなければならないことでもある。
何時しか身体は動くことを要求する。
動くことを知らなかった身体が自分の内部から動こうとするのである。
これは、蓄積された不必要な意識の発散であるかもしれない。

いずれにしても、意識は体を通そうとしている。

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2000/06/24